気学とは①

気学とは運命を考える学問です。

 大空に浮かぶ無数の星は洋の東西を問わず、私達に、夢と想像力、未来を語ってくれました。大空の星と人間とのかかわり合いが、ヨーロッパでは西洋占星術、中国で九星術(気学)の源となったのです。

 われわれの祖先は、農耕を営むために、季節の変わり目や、台風のやってくる日をできるだけ正確に知ろうと努力しました。その現われが暦です。四李の移り変わりで、台風や雨季を予測したり、その方角を知りました。そのことから、気学を、方位学ともいいます。
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気学の「気」について

 辞書を引くと、気の付く言葉は・・
気力、妖気、気分、気配、気象、元気、短気、病気、のん気、邪気、無邪気、本気、弱気、強気、侠気、気質、気候、狂気、人気、不人気、天気、景気、外気、大気、気概、気持ち、気性、気象、陽気、陰気、気付き、勇気、覇気、電気、気息、気味、才気、気合、気骨、気息、気力、勇気、・・と、いっぱいあります。

 気学とは、人間がこの世に生を受け、初めて大気にふれたときの気と、生まれた星を基本として、人事いっさいの事がらを明らかにする学問です。気学は、その人の生年月日を中心とした占術であることから個人学と言われる。

気学の歴史と内容
 気学という言葉は、大正の中ごろ、圓田真次郎という易占家が、その著書の中で使ったのが初まりとされています。それまでは、九星術とか、方位学と呼ばれていました。その歴史は、暦と共にあつたと考えてよいでしょう。

 明治5年11月9日に太政官布告が発表され、その年の12月3日を、明治6年1月1日とすることになりました。つまり旧暦(太陰大陽暦)から、現在の新暦(太陽暦)に切り替わったのです。
伝統と習慣を重んずる当時の人々は、新暦と旧暦の二本立ての生活をしていました。 現在でも、「大安吉日」「草木も眠るウシミツどき」「おやつ」「還暦」など、日常生活の中でたくさんの言葉が使われています。

気学と切っても切れないのが暦の歴史です。

 日本書紀によると、西暦553年(欽明天皇の時代に百済から医学・易学・暦学の学者(博士と呼んだ)を招へいしたとあります。
日本で最初に暦が使われたのは、持統天皇の時代(西暦692年)という記録が残っています。遣惰使、遣唐使を派遣していた頃です。

 平安時代、西暦927年(醍醐天皇の時代)に、延喜式という法令集が作られ、その中に、天文・時刻・気象・暦学・占いなどに関するすべてを扱う「陰陽寮」という書物が残っています。

 この陰陽寮には、占いの専門家として陰陽師六名、陰陽師を教える陰陽博士1名、現代の塾生とも言える陰陽生十名。暦をつくったり、暦学を教える暦学博士1名、暦学の学生10名。天文学を教える天文博士1名、天文生10名。水時計によって時刻を飛どる漏瑚博士2名、その指揮下にある満尉羽20名(時を知らせる係、などがいた、とあります。

 そして、これらの暦学博士たちが、翌年の暦を作り、ときの天皇に奏呈し、それから天下に布告したのです。ヨーロッパでは、印刷の技術を発明したグーテンベルクは、一般民衆に直接神の声を伝えるために聖書を印刷し、次に、暦を印刷して配布しました。

 つまり、一般の民衆が暦を求めたのです。
日本では、暦は朝廷のもので、十千十二支と、中国から伝わつた漢字 で作られているが、慣行やしきたりなどの日程・行事を綴ってあり、一般の民衆には埋解しにくいものでした。

 江戸幕府にも「天文方」という職制がおかれ、自前の暦をつくるべく、天文台もおかれ、この天文台におかれた観測器機は、東京大学の前身である開成学校に引きつがれ、さらに、現在の東京天文台へと繋がっているのです。

太陽暦と太陰暦

 太陰暦は月の満ち欠けを基準に作った暦です。
月は満月から満月までが約29.5日強です。
この29.5日を12倍すると1年は約354日となります。この354日を1太陰年といいます。
  一方、現在の太陽暦では、1年は約365日であり、365日と354日の差は11日となり、1太陰年が11日も短か いことになります。
そこで、太陽暦に合 わせるために、約3年に1回の割合で、 余分の月"うるう月"を押しこんだのです。
つまり、3年に1度は1年が13月になることになります。

 この"うるう月"は、どこに人れてもよく、4月のあとに人れれば、うるう4月 といって、古典文学でお目にかかる言葉です。
 このように、旧暦でも現在の太陽暦と同じように、李節の移り変わりの基準点として24節気を置き、季節のズレを補っていました。